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花尊し

花尊し

他力本願

他力本願についての Q & A

Q 他力本願が「他人まかせ」というのは本来の意味からはずれた誤用?
A 他力本願という宗教用語について、他人まかせにしないで自分で調べてみたら、他人まかせにする、他人の力をあてにする、自分で努力せず他人の力をあてにするといった意味のほかに、仏さまの力という意味があります。他力本願は仏さまの願い、仏さまからの願い、すべての人を必ず救いたいという願い、私たちの願いはキリがなく それを迷いと言い、迷っている人を必ず救うというのが仏さまの願いなのです。願いにキリがないのは分かっても、自分ではなかなか気がつかないで、例えば、朝日が差し込んでいるところだけにホコリが舞っていたり、何もないと思っていても、光に照らされて、初めて見えてくる、迷いとはそういうもので、仏さまの願いに照らされて、ホコリだらけの自分に気づかされるということであります。科学が進歩しても人間の悩み、迷いは一向に変わらないのです。

Q 他力本願の本来の意味を教えて
A 他力本願は、世間ではもっぱら他人の力をあてにすることとして、良くないことのように思われマイナスイメージで受け取られていますが、浄土真宗の命とも言うべき言葉で、み教えの根幹に関わる最も重要で大切な言葉であり、「阿弥陀仏の本願、また、衆生(しゅじょう、人間をはじめ仏の救済の対象となるすべての生物)がそれに頼って成仏を願うこと」が本来の意味です。阿弥陀様の他を救う力に、ひたすらおすがりするということであり、阿弥陀様への絶対的な帰依を表します。他力は他人の力ではないとしても「自分で仏となる力がないので阿弥陀仏の力を借りて仏となる」といった自力がゼロだから他力に頼るということでもありません。浄土真宗の宗祖親鸞がいう他力とは、広大無辺な阿弥陀如来の力を表す言葉で、本願とは、私たちの欲望を満たすような願いではなく、阿弥陀如来の根本の願いとして「あらゆる人々に、南無阿弥陀仏を信じさせ、称えさせて、浄土に往生せしめよう」と誓われた願いのことです。この本願のとおりに私たちを浄土に往生させ、仏に成らしめようとするはたらきを「本願力」といい「他力」といいます。このような如来の本願のはたらきによる救いを「他力本願」という言葉で聞き、自らの本当の姿に気づかされ、いのちの尊さと意義が明らかに知らされるのです。

Q 浄土真宗の宗祖である親鸞の自力と他力の思想とは
A キリスト教もイスラム教も一神教であり、それに反するものは悪となるような、正義の押し売り宗教ですが、浄土真宗は人にやさしい宗教なのです。

Q 仏教でいう自力とは
A 自力は、自分自身の力、自分で努力すること、他力は、他人の力、また自分以外のものに頼ることを意味します。仏教でいう自力とは、自身の修行によってさとりをひらこうとすることを意味します。親鸞聖人も、9歳で出家・得度をし、比叡山にある延暦寺で、天台宗の教学のもと、20年間修行しました。自分の力で修行をして、自らの疑問に純粋に向かい合いました。しかし、どれだけ厳しい修行をしても、見えてきたものは、自分の煩悩の深さと、その煩悩に流されてしまう人間の弱さでした。そして、いくら自力で修行しても答えを見つけることができなかった親鸞は、29歳のとき比叡山を下りたのです。どれだけ仏教を勉強しても、どれだけ苦しい修行をしても、自身の疑問に答えを出すことはできなかったのです。

Q 凡夫(ボンブ)とは
A 究極の疑問、
1.人間とは何なのだ?
2.死んだらどこへ行くのか?
3.本当に救われるのか?
これは釈迦が持った疑問であり宗教が答えるべき問題ですが、自分の力で答えを出すことができなかった親鸞は結局自分は凡夫(ボンブ)であることを痛感し自力を捨てたのです。凡夫とは、凡庸な人、普通の人のことを指しますが、仏教では、真理に暗く、さまざまな欲望や我執などの煩悩にとらわれて、苦しみ・悩みの世界をさまよう人々のことを言います。私たち人間は常に煩悩に支配され、欲深く、怒り、腹立ち、嫉妬し、死ぬ間際まで、その煩悩は消えることはなく、どこまでいっても人間は凡夫なのです。煩悩に満ちた凡夫である私たちが、いいことをしても、自分はこんないいことをしているんだと思い、人のために何かをしたという自己満足、エゴになるのです。親鸞は自分のことを、愚禿(グトク)、愚かなハゲと言い、徹底して自分自身を見つめわかったことは、自分はどうしようもない凡夫であるということでした。どれだけ修行し、努力しても、最終的には死ですべてが無意味に終ってしまう自力の限界の先に他力があったのです。自分自身では煩悩を消すことはできない、救われない、いったい何で救われるんだ、阿弥陀仏にたのむしかない。親鸞は法然に出会い「ただ念仏せよ」という一見単純な教えに感銘を受けます。

Q 阿弥陀仏の本願とは
A 阿弥陀仏の本願とは、浄土真宗の根本経典である「仏説無量寿経」に説かれる阿弥陀仏が仏になる前にあらゆる人の救済を誓ったものです。この本願と呼ばれる四十八個の誓いの中で、阿弥陀仏の名をとなえるものをすべて救うと誓った第十八願が、他力の信心の拠りどころとなり、自力ではどうしようもないところで阿弥陀仏が救うというその言葉に頼るというわけです。

Q 阿弥陀仏の慈悲の心とは
A 自分のことしか考えることができない人間には生・老・病・死を超えることはできません。愛する人を亡くした悲しみ、死への不安、生まれてきたことの意味、いろいろなことがどうすることもできないのです。自分ではどうすることもできないその時、阿弥陀仏の本願を「ありがたい」と受け取ればいいのです。阿弥陀仏の私たちを救うという慈悲の心は、その対象を選ばないから、どんなに自分勝手なことをしても、いいかげんなことをしても、間違いを犯してしまっても、常に温かく見守ってくれています。これは人間には持つことのできない心です。

Q 南無阿弥陀仏とは
A 自分の力で幸せになることはできるのか、自分の力で自分を救うことはできるのか、と問い続けることは人間として生を受けた以上、大切なことです。南無阿弥陀仏の南無とは、帰依する、すべてをまかせるという意味で、南無阿弥陀仏とは阿弥陀仏にすべてまかせるという意味です。自分自身の力、自力では救われることはできない、阿弥陀仏にすべてまかせるしかない他力、それが自力・他力の意味です。

Q 死んだらどこへ行きますか?
A 過去は既に終ったことだし、未来はまだ来ていないもの。まさに今現在に思いをなすべき、今この日々を精一杯生かされて生きることが大切なのです。しかし、行き先のわからない旅は不安です。阿弥陀如来の本願成就によりそのときがくれば私達は阿弥陀様に救いとられて、浄土に往生できるのです。

Q 浄土とは
A 浄土は花咲き、鳥舞うユートピアというより、本願成就、願いにより仕上がっている「無量光明土」光の世界、真実そのものの世界、仏さまがいる国というより亡き人と再び出会う世界でもあります。

Q 信仰でのご利益は?
A ご利益をうたう宗教は実に身勝手な自分さえよければ・・といった欲望をかなえるもので、病気が治るとか家内安全、交通安全などのご利益は、真の宗教には一切ありません。しかし、そのような気持ちに惑わされない生き方ができるという「ご利益」はあります。

Q ダーナとは
A ダーナとはインドの古い言葉で「与える(贈る)行為」という意味で、「布施」と表現します。ダーナには、お金や品物を贈る事(財施)と、真実の み法を伝えること(法施)があります。布施は そのことによって見返りを求めないということです。何かをしてあげたら お礼の言葉や何かお返しが欲しくなりますが、本来、布施はそのようなものを一切求めないものなのです。




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